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東京地方裁判所 昭和59年(ワ)6159号 判決

原告

五常商事株式会社

右代表者代表取締役

伊東俊勝

右訴訟代理人弁護士

山下俊六

柘賢二

柘万利子

被告

井下田昌禧

井下田ムツ

井下田栄子

右三名訴訟代理人弁護士

山口英資

主文

原告の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

(主位的請求)

1 被告らは、原告に対し、別紙物件目録記載の建物を明け渡し、かつ、昭和五九年五月一日から明渡ずみまで一か月金三万二〇〇〇円の割合による金員を支払え。

(被告昌禧に対する予備的請求)

2 被告昌禧は、原告に対し、原告から金五〇〇万円の支払を受けるのと引き換えに別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。

3 訴訟費用は被告らの負担とする。

4 仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和五八年九月二八日、訴外村林舞子所有の別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を同訴外人との交換契約により取得した。

2  訴外鈴木留吉は戦前において被告昌禧の父井下田金四郎に対し本件建物を賃貸したところ、本件建物の所有権は訴外鈴木から訴外高橋愛造、同村林、原告へと転々譲渡され、現在原告が賃貸人の地位を承継し、一方井下田金四郎も昭和四三年三月死亡したので、その子である被告昌禧が相続により賃借人の地位を承継した。

3(一)  原告は、被告昌禧に対し昭和五八年一〇月二四日到達した書面をもって、本件賃貸借契約を昭和五九年四月末日限り解約する旨申し入れた。

(二)  原告の本件賃貸借契約の解約申入れには、次のとおり正当事由が存在する。

(1) 本件建物は戦前に建てられた建物であり老朽化が進んでおり改築の必要性が極めて高い。

(2) 本件建物は小田急線代々木上原駅から徒歩五分の商店街に立地しており、その敷地の地価は坪当たり二〇〇万円を下らず、本件建物敷地についても有効に利用することが要請されているところ、原告は本件建物敷地とその所有する周辺土地を併せて三階建以上の中高層建物を建築して土地の有効利用を図ることを計画している。

(3) 被告昌禧は本件建物の一階部分において菓子の製造販売業を営んでいるが、自らはその所有する建物に居住しており、本件建物の二階部分を第三者である被告ムツ及び同栄子の住居として利用させている。また、被告昌禧は賃貸人の承諾を得ることなく本件建物及びその造作物に変更を加えるなど賃貸借契約に反する行為を行っている。

(4) 原告は被告昌禧との明渡交渉において、本件建物敷地上に建築を計画している中高層建物の一階部分のうち67.06平方メートルを、敷金権利金なし、賃料一か月七万円、被告昌禧が右建物の管理人となるとの条件で貸し渡し、かつ右建物建築中の営業補償として相当額を支払う旨の提案した。原告の提案は近隣の同種建物の賃料等と比較して極めて妥当なものであったが、被告昌禧は賃借面積が少ない、賃料が高い、管理人は引き受けられないとして右提案を拒否した。被告昌禧の交渉態度は極めて不当というべきである。

(5) 前記事情だけでは正当事由として不十分である場合には、原告は被告昌禧に対し本件建物の明渡料として五〇〇万円を支払う。

4  被告ムツ及び被告栄子は本件建物を占有している。

5  本件建物の昭和五九年五月一日以降の相当賃料額は一か月三万二〇〇〇円である。

6  よって、原告は、被告昌禧に対し賃貸借契約の終了に基づき、被告ムツ及び同栄子に対し所有権に基づき、主位的に本件建物の明渡と昭和五九年五月一日から明渡ずみまで一か月金三万二〇〇〇円の割合による金員の支払を求め、被告昌禧に対し予備的に原告が同被告に対し金五〇〇万円を支払うのと引き換えに本件建物の明渡を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1、2の各事実は認める。

2  同3(一)の事実は否認し、同3(二)の原告の解約申入れに正当事由が存することは争う。

(一) 本件建物は戦前に建てられたものであるが、被告昌禧において保守努力を重ねてきた結果現在でも十分居住の用に耐えるだけの耐久性を有している。

(二) 被告昌禧は本件建物の一階部分を菓子の製造販売及び甘味喫茶の営業のために、本件建物の一階部分奥を被告昌禧の営業の手伝をしている被告ムツの、本件建物の二階部分を同栄子の居住のためにそれぞれ利用しており、本件建物が被告昌禧一家の営業と生活の拠点となっており、被告昌禧が本件建物を必要とする程度は大きい。また、同被告が本件建物に被告ムツ及び被告栄子を居住させていることをもって第三者に利用させていると評価するべきではないし、被告昌禧が賃貸人の承諾を得ることなく本件建物の改造を行うなど賃貸借契約に反する行為を行ったこともない。

(三) 原告の明渡交渉における被告昌禧に対する代替建物の提供は会う度ごとに場所も構造も異なる建物を示すなど全く不誠実な態度に終始したものであり、明渡交渉をしたという経過を形式的に整えるためのものにすぎなかった。

3  請求原因4の事実は否認する。被告ムツは同昌禧の母、同栄子は同昌禧の姉であり、同被告の本件建物についての賃借権に基づいて本件建物を利用している者であり、独立した占有を有していない。

4  同5の事実は認める。

5  同6は争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1、2の各事実は当事者に争いがない。

二〈証拠〉によれば、原告は被告昌禧に対し昭和五八年一〇月二四日付け書面で本件賃貸借契約を昭和五九年四月末日限り解約する旨申し入れ、右書面はそのころ被告昌禧に到達したことが認められる。

三原告の本件賃貸借契約の解約申入れに正当事由があったか否かについて判断する。

1  原告の本件建物及びその敷地の自己使用の必要性

前記一記載の当事者間に争いのない事実、〈証拠〉によれば、原告の本件建物及びその敷地の必要性につき、次の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

原告は飲食店、損害保険会社の代理店の各経営及び不動産管理を業とする資本金三五〇〇万円のいわゆる同族会社であるが、渋谷区上原一丁目、同二丁目、同三丁目、渋谷二丁目等において原告名義ないしは原告代表者の親族の名義で多くの不動産を所有している。原告は昭和四八年三月一五日原告代表者の父から本件建物の敷地を含む東京都渋谷区上原三丁目一二七六番一の土地538.39平方メートル(以下「本件土地」という。)を財産管理の目的で買い受けた。当時本件土地の北東部分は訴外村林が借地し借地上に建てられた建物に同訴外人が居住するとともに、被告昌禧に対し本件建物を賃貸しており、北西部分は訴外古沢が、南西部分は訴外杉田が、南東部分は訴外吉岡がそれぞれ借地していた。昭和五八年六月ころ訴外村林の借地の更新を契機に各借地権を等価交換方式によって評価することにより本件土地に四階建ての建物を建築する計画が立てられたが実現には至らず、訴外村林は原告との間で昭和五八年九月二八日本件土地の借地権及び本件建物を含む借地上の建物の所有権を東京都渋谷区上原三丁目一二七六番五の土地、60.51平方メートルと交換し、これにより原告が本件建物の賃貸人としての地位を承継した。その後原告は本件土地全体を開発することと部分的に開発することの二つの方針を立て、訴外白石建設株式会社に依頼しあるいは自ら本件土地の借地人及び被告昌禧に対する明渡交渉を行い、訴外古沢との間の交渉は成立し借地権及び借地上の建物を買い受け、さらに訴外吉岡についても明渡交渉がほぼ合意にまで達したが、訴外杉田及び被告昌禧については合意に至らなかったため、本件土地の全体計画をあきらめて訴外古沢の借地上に三棟の建売住宅を建て、昭和五九年一〇月ころ内二棟の建物を本件土地から分筆した一二七六番八及び九の土地とともに訴外山口らに売却し、内一棟の建物についてはかつて原告の従業員であった訴外萩野らに売却した。原告は被告昌禧が本件建物を明け渡したときは本件建物の敷地に訴外村林が居住していた建物の敷地と訴外萩野に売却した建物の敷地を併せ、あるいは訴外吉岡及び同杉田の借地部分の明渡交渉が成立すればこの部分も併せて開発する計画を有している。

以上、要するに、原告の本件建物及びその敷地部分の必要性は、本件建物敷地周辺の原告所有地も併せて開発し、その土地の効率的な運用を図り、原告の営業に資するということにある。

2  本件建物の立地条件及び周辺の事情

〈証拠〉によれば、本件建物の立地条件及び周辺の状況につき、次の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

本件建物は小田急線代々木上原駅から徒歩約五分の上原中通り商店街に位置し、建ぺい率八〇パーセント、容積率二〇〇パーセントの近隣商業地域に属し、本件建物敷地部分の地価は最近の東京都の地価の高騰化を反映して相当高額となっており、本件建物敷地を含む周辺土地は有効かつ効率的な利用が図られることが望ましい地域とはいえる。しかし、本件建物周辺の現実の状況は小田急線代々木上原駅周辺の地域においては三階建て以上の近代的な建物がかなり多いといえるが、本件建物の属する上原中通り商店街においてはいまだ二階建ての建物が大部分を占め、三階建て以上の建物は少ない状況にある。

3  本件建物の朽廃の程度

〈証拠〉によれば、本件建物は昭和五年より前に建てられた木造の建物であり、屋根から雨漏りがしたり外壁が痛むなどかなり老朽化しているといえるが、被告昌禧においてその都度本件建物を補修しており、現在支障なく居住の用に供していることが認められるのであり、本件建物が居住の用に供することができないほど朽廃し、改築の必要性が極めて高いとまでいうことはできない。

4  被告昌禧の本件建物の必要性

前記一記載の当事者間に争いのない事実、〈証拠〉によれば、被告昌禧の本件建物の必要性につき次の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

被告昌禧は現在本件建物の一階部分において「初音家」という屋号で和菓子の製造販売及び甘味喫茶を営み、右営業による月商約一〇〇万円の売上から得られる収入によって被告昌禧一家(妻と子二人)及び母である被告ムツ、姉である被告栄子の生活を支え、さらに本件建物の一階部分奥の座敷を被告ムツの、本件建物の二階部分を被告栄子の居住用として利用している。「初音家」は被告昌禧の父が昭和五年ころ本件建物を訴外鈴木から借り受けて営業を始め、父の死亡後同被告がその営業を引き継ぎ、妻、母及び姉の手伝いを得て、主に本件建物の周辺に居住する固定客を相手に営業を行っているものであり、場所的にも上原中通り商店街に位置し恵まれており、本件建物から他へ営業場所を変更することは今までの顧客を失い売上に大きな影響を及ぼすおそれがあるし、その移転費用及び新たな建物を借り受けるための金員及び内装費等多額の出費を余儀なくされる。

被告昌禧は昭和四〇年ころ本件建物からさほど遠くない上原一丁目に買い受けた118.18平方メートルの広さの土地及びその土地上の建物を兄弟等で共有し、現在被告昌禧一家は右建物に居住している。被告昌禧所有地は本件建物より小田急線代々木上原駅に近く同駅周辺は商業地域となっているが、同所有地は表通りからやや奥まった住宅地に位置し、和菓子販売及び甘味喫茶の営業を行うには適当な場所ではない。また、同被告一家が居住している建物は、一、二階併せて六畳二間、四畳半二間の73.24平方メートルの広さで被告ムツ及び同栄子が移り住むには手狭であるし、被告ムツは昭和五七、八年ころから老人性痴呆症になり、居住場所を変えることは同被告の症状にとって望ましいことではない。

以上被告昌禧にとって本件建物は同被告一家の生活を支える営業の場として、さらには母や姉の居住の場としてその必要性は高いといわなければならない。

5  被告昌禧の本件賃貸借契約における背信性

〈証拠〉によれば、被告昌禧ないし同被告の父は本件建物につき昭和三〇年ころ本件建物に二階部分を増築し一階部分を改築する工事を、同四一年ころ本件建物の一階部分の改築工事を、同五四年ころ本件建物の屋根にトタンを張る補強工事をそれぞれ行ったこと、昭和三〇年ころ行った増改築工事についてはその当時賃貸人であった訴外高橋の承諾を得て行ったものの、その後の一階部分の改築工事については同訴外人の承諾を得なかったため同訴外人から苦情がだされたが家賃を値上げすることで解決に至り、屋根の補強工事については賃貸人であった訴外村林の承諾を得ていないが、同訴外人から特段の苦情は出されていないこと、被告ムツは同昌禧の父が本件建物を借り受けた昭和五年から、同栄子は同被告が出生した昭和七年からそれぞれ本件建物に居住しており、その状態は賃借人の地位が被告昌禧の父の死亡により同被告に承継されてからも何らの変更はないことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

以上によれば、被告昌禧ないし同被告の父において賃貸人の承諾を得ずに本件建物の改築を行ったことがあったことは認められるが、その後賃貸人との間で解決ずみか、あるいは賃貸人から異議が出されずに終わっている問題であり、賃貸人の地位の承継を受けた原告との間において同被告の背信性を問題にする余地はない。また被告ムツ及び同栄子の本件建物の居住は賃借人である被告昌禧の賃借権に基づく居住であるというべきであり、これをも背信性の事情とすることはできない。

6  原告の被告昌禧に対する明渡交渉の経過

〈証拠〉によれば、原告の被告昌禧に対する明渡交渉の経過につき、次の事実が認められ、右認定に反する被告昌禧本人の供述部分は措信し難く、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

原告は被告昌禧に対し本件賃貸借契約の解約申入れをしたのち、自らあるいは訴外白石建設株式会社に依頼して同被告との明渡交渉に当たった。原告は昭和五九年二月一五日の第一回目の交渉において本件建物を取り壊した後の本件建物敷地に建てる建物の計画図面を示し、被告昌禧に対し右建物のうち一階部分11.66坪と二階部分11.62坪を賃貸する旨の提案をした。これに対し被告昌禧は一階部分において店舗と作業場、さらには店番をすることができる居住部分を確保できる広さを要求をして右提案に難色を示した。原告は同月二七日の第二回目の交渉において上原中通り商店街に面し本件建物から約五〇メートルほど離れた原告所有地に建てる建物の計画図面を示し被告昌禧に対し一階部分9.93坪と二階部分8.7坪を提供する旨の提案をしたが、右提案も同被告が要求していた条件を満たさず、また右場所が商店街の中心部からやや離れることを理由に同被告の受け入れるところとはならなかった。そこで、原告は同年四月三日の第三回目の交渉において本件建物の敷地部分とその北西部分をも併せて建物を建築する計画図面を示し同被告に対し一階部分において店舗、作業場及び居住部分を確保できる67.065平方メートルの広さを有する部分を賃料一か月七万円で提供し、それと同時に過去三年間の営業実績に応じて本件建物から退去している間の営業保証を行うこと、店舗における一般的な造作部分の費用は原告が負担すること、同被告が右部分を借り受けるに当たっては特定郵便物の受理、警報関係の管理等の管理人の仕事を引き受けることの提案をした。しかし、同被告において右部分においても本件建物の賃借面積に比較して約五坪狭いこと、賃料一か月七万円は高すぎること、管理人と明渡交渉とは切り離して考えるべきことを主張し同被告の受け入れるところとはならず、原告は明渡交渉を打ち切り本件訴訟を提起するに至った。

以上の明渡交渉の経過からすれば、原告は被告昌禧に対し本件建物を明け渡す条件として同被告の要求にもある程度応じて種々の提案しており、その交渉態度は評価されるべきである。これに対し、被告昌禧においては本件建物の賃借条件に拘泥していたきらいがないではなく、お互いに譲歩して妥協点を探るという柔軟性にやや欠けていた面があったといえる。

7  以上に認定した各事情によれば、本件建物で営業を行うことにより一家の生活を支え、さらには本件建物を母と姉の居住用に利用している被告昌禧において、本件建物の敷地部分を効率的に利用することによりその営業上の利益を獲得しようとする原告より本件建物を必要とする事情が大きいことは明らかであり、これに加えて本件建物が属する上原中通り商店街はいまだ二階建ての建物が大部分を占め、本件建物敷地部分に中高層建物を建築することがその地域的要請であるとまでいうことはできず、また、本件建物はかなり老朽化している事情はあっても居住の用に供することができないほど朽廃しているとまでいうことができず、被告昌禧において賃貸借契約上背信行為があったとも認められない以上、原告の被告昌禧に対する明渡交渉態度は評価されるべきであり、明渡交渉においてはむしろ同被告に足りない面がみられたとしても、原告の本件賃貸借契約の解約申入れに正当事由があるとは認められないし、右正当事由は原告が被告昌禧に対し明渡料として五〇〇万円を提供したとしても満たされるものではないといわなければならない。

四前記三、5において認定したとおり、被告ムツ及び同栄子は被告昌禧の本件建物の賃借権に基づき本件建物に居住しているものであるから、被告ムツ及び同栄子に本件建物の独立した占有は認められない。

五以上によれば、原告の被告らに対する本訴請求は主位的請求、予備的請求のいずれにおいても理由がないから失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官前田順司)

別紙物件目録

所在 東京都渋谷区上原三丁目一二七六番地一

家屋番号 一二七六番一の一

種類 店舗共同住宅

構造 木造瓦・亜鉛メッキ鋼板葺二階建床面積 (公簿上)

一階 104.30平方メートル

二階 52.98平方メートル

(現況)

一階 約53.71平方メートル

二階 約12.39平方メートル

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